| マハラジャ誕生20年 大阪マハラジャ伝説 |
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マハラジャ・ウェブサイト(以下Mと省略): 本日は、お忙しいところ、お時間を頂きましてありがとうございます。マハラジャ・ウェブサイトでは「マハラジャ誕生20年」を記念して第一号店である「大阪マハラジャ」の特集を組む事となりました。そこで全国のマハラジャで一番最初に店長を務めた赤松さんに「マハラジャ誕生」についてのお話をお聞きしたいと思っております。どうぞ宜しくお願いします。 赤松範彦氏(以下Aと省略): いやいや・・・こちらこそ宜しく。 M: 早速ですがノヴァ21グループに入社されたきっかけをお聞かせください。 A: 先にグループに入社してた、大淵(大阪レジャー開発 社長)とは幼なじみなんや。たまたま大阪に帰ってきよった時に「大阪に店を出すから手伝ってくれへんか?」って口説かれた・・・ M: それで決断したと・・・ A: いや、最初は断った。「水商売はイヤや!」言うてね。中学、高校の時もディスコに行ってたけど、ディスコでは働きたくなかった。遊ぶトコやと思ってたし、店の従業員の偉そうな態度も気に入らなかった。 M: ・・・・ A: そやけど、大淵の「2人で大阪で一番の店、創ろうや」って言葉と熱い思いに、入社を決断した。 M: なるほど・・・ A: 入社したんはええけど、研修で上京した時に「入る会社、間違ごうた!」って思った・・・上司は皆、柄もののスーツに柄のシャツ、柄のネクタイやったしね。 M: そして研修を終えて、'79年に北新地に「最後の20セント」と「泥棒貴族」をオープンされる訳ですね。 A: うん。そやけど、キタの店は東京からの出向してきた人達がやってた。俺らはミナミの若者をターゲットにして、主に大淵が「泥棒貴族」、俺は「タッチダウン」をみてた。 M: 「タッチダウン」はどんなお店だったのですか? A: 45坪でカジュアルな店。入口のチェックも厳しくなかった。 M: それが流行ったんで「大阪ジジック」を造ることになったという訳ですね。 A: そうなんやけど、(ミナミの2店が)なんぼ流行ってるいうても小さい店やったし、大したことなかった。 M: 北新地の3店の失敗が、緒を引いていたと・・・ A: そやからジジックを失敗させる訳にはいかなかった。150坪のジジックを失敗すれば、会社も店も無くなるという状況やった。「泥棒貴族」と「タッチダウン」のスタッフを集結させ、集客力のある人材をスカウトした。まぁ、他のディスコのオーナーには煙たがられたけど・・・ M: 「集客力のある従業員」がポイントなんですね。「ジジック」の店名の意味は何なんですか? A: 「ミュージック」って言葉のフランス語訛りなんだよ。 M: なるほど・・・ところで「大阪ジジック」の内装については? A: 黒と白を基調にしたシックな店。元の「クレイジーホース」がいい店だったから、全面改装しなくて済んだ。まぁ、そんなお金が無かったけど・・・ M: VIP席はあったのですか? A: あったけど、ダンスフロアが見えなくて凄く不評やった。 M: 赤松さんが「大阪ジジック」のオープン当時に、理想や目標にされたディスコがあれば教えてください。 A: ちょっと時代をさかのぼるけど「ムゲン」「キャステル」(脚注参照)だね。 M: 大阪では初めてのチェックディスコということで、ご苦労された事は? A: 「暴力団の徹底排除」やな。ヤンキー、ちんぴらは全然怖なかったけど、暴力団は「飛び道具」を持ち出してくる。とにかく、そういう輩(ヤカラ)は徹底的に断った。●●大学の柔道部(注:強豪で有名)部員をセキュリティに使ったり、防弾チョッキを着用してた時期もあったな・・・ M: 入店チェックを徹底的に行うことで、お店にふさわしいお客様が集まったのですね。 A: そう「お客様」。お店の外の行列の中には、お客様と断らなければいけない人がいた。だから毅然たる態度で入店チェックをしていた。勿論お店の中に入って貰ったら「お客様」。お客様には十分に楽しんで貰えるように「マニュアル」を作成して従業員教育に力をいれた。マニュアルを作ったのはグループでもジジックが最初やった。 M: 従業員の指導については? A: いつも「お前らにもチャンスがある」と言っていた。この世界は学歴も関係ないし「努力次第で俺を抜くことだってできる」ってね。 M: そういったご苦労があって「大阪ジジック」が大成功したのですね。ところで入店待ちのお客様の行列、凄かったらしいですね。 A: うん。ひどい時なんか6階から1階までの階段をいっぱいにしたうえに心斎橋筋商店街まで並んでもらった。 M: クレームは? A: お客様からよりも、ビルの他のテナントから怒られた。ダイヤモンドビルはホストクラブが多く入ってたんやけど、ご年配のお客様が来づらくなって、何店かは移転したり潰れたみたいやね。 M: そして空いたのが、ダイヤモンドビル5階ですね。 A: そう。ちょうど5階のフロアが空いたんでもう一軒ディスコを造った。それが「大阪マハラジャ」。ジジックの延長というより、全く新しいディスコを目指した。内装は真鍮と大理石を多く使って豪華。従業員の接客も制服も格好いい。ドリンクやフードのメニューも本格派だった。 M: なるほど・・・「大阪マハラジャ」の内装について、もう少し詳しくお聞かせください。 A: これ程、豪華な店は他に無かった。まぁ、東京やったら「チャクラ・マンダラ」や「ビー」(脚注参照)が同じ路線やったけど、それ以上。ちょうど世の中もバブルのはしりで金色が流行ってた。装飾品は、お馴染みの真鍮製の象牙や、豹や象の置物、金色に輝く竹とかね。 M: お立ち台の天板は大理石じゃなかったんですよね。木製でしたっけ? A: よく知ってるねー。あれは樹脂製。テーブルにも使われていた素材だった。 M: スピーカー台は「お立ち台」として機能してたんですか? A: うん。ジジックにもあったけど、ちょっと高かった。マハラジャでは低くして、階段を付けた・・・ M: それで、お客様がお立ち台に上がった・・・ A: いや、最初はこっちが頼んでた。「目立つコ」にね。 M: お客様は、モデルの方が多かったんですよね。 A: そう、モデルや芸能人、多かったね。従業員もモデルや、後に芸能人になったヤツが何人もいるよ。パリコレのモデルに選ばれたヤツもいた。従業員の募集の条件も「身長175cm以上」やった。今なら差別用語だけど・・・ M: ところでレストランコーナーに「すしバー」を設置したのって、当時はセンセーショナルなことだったんですよね。 A: ディスコに「すしバー」を設置したのは六本木の「ギゼ」(脚注参照)が最初だったけど、マハラジャのお寿司は別格だった。もちろん、いろんなメニューがあったけどお寿司は人気があったね。 ところで話は変わるけど、あのレストランコーナーは、最初の計画では5階に造る予定やった。工事の直前に4階のフロアが売りに出たんで、すぐに契約して天井をぶち抜いた・・・ M: えっ!そうだったんですか?レストランコーナーは「大阪マハラジャバー」と繋がっていましたよね。 A: あれは後から造った。マハラジャバーの場所も、元はホストクラブやった。 M: 「大阪マハラジャバー」もホストクラブだったんですか。しかし「大阪マハラジャ」は本当にいい店でしたね。2号店の「マハラジ四條」と同様、天井の低い店でしたがオリエンタル・ムードが濃く、中期・後期のマハラジャより渋かったですね。「マハラジャ四條」で働いてた私には、あの広さは羨ましくもありましたけど・・・ A: あの広さを活かし、ダンスフロアを中心に客席を配置したので、(お客さんが)どっちを向いて踊ったらいいの?てね。昔のディスコはダンスフロアの壁に鏡が貼ってあったしね。 M: そうですね。その「ダンスフロアを中心にした配席」も、マハラジャ・サルーンの特徴であり、後の多くのディスコに影響を及ぼしてきたという訳ですね。今日のお話で、「大阪ジジック」と20年前の「大阪マハラジャ」に、「マハラジャ王国」の黎明を感じました。 最後に赤松さんにとってジジックとマハラジャとは? A: 大阪のディスコ業界を変え、全国規模で注目を集めた2店だった。 M: なるほど・・・私もマハラジャの誕生は「大阪ジジック」を無しに語ることは出来ないと確信しました。まもなく迎える「マハラジャ誕生20年」には「大阪ジジック」を支えマハラジャの誕生に寄与された諸先輩方に、改めて敬意を表したいと思います。 本日はお忙しいところ貴重なお話しとお時間を頂きましてありがとうございました。これからもマハラジャ・ウェブサイトについて、ご指導宜しくお願いします。 ('02年7月27日 六本木ヴェルファーレ・TCVにて)
後記: 「マハラジャ誕生20年」に際して、赤松氏へのインタビューは正に悲願ともいえました。気さくに関西弁を交えてお話頂き、大変感激しました。 |
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